佐渡は日本の縮図~みな佐渡の港が繋いだ文化と歴史~
佐渡は寒暖両系の植物境界線である北緯38度線が島の中央を通過しているため、1700種近い南北両系の植物が自生しています。また古くから流刑地と定められ流されてきた貴族や知識人であったり、様々な地域から集まった人々がもたらした文化により歴史的にも地理的にも日本の縮図と言われています。
この特集では歴史的な面から見て、日本の縮図と呼ばれる所以が島と本土を繋ぐ港が深く関係していることを皆さんにお伝えします。
南佐渡に港が多いのは
佐渡は約300万年前から続く地殻変動や海底火山の影響により本土との間に海峡が生まれ、その海峡を本州沿岸から流れる対馬暖流が流れています。日本海というと冷たく荒れた海を思い浮かべるかと思いますが、この暖流の影響で冬の時期以外は潮の流れが安定しており古くから日本海廻りで頻繁に船が往来していました。また対馬暖流が運んでくる栄養豊富な海流により良い漁場が多かったこともあり商港・漁港ともに集中していました。
日本海廻りの船で栄えた港町
南佐渡の港は、古くから日本海側の発展した良港の1つでした。年間を通して太平洋側より穏やかな日本海を利用し港と港を繋いでいたのは当時では大型に属する帆船「北前船」でした。
この船は東北地方の年貢米を江戸や大阪に運んだり、日本海沿岸各地の特産品と京都・大阪地方の特産品の交易に活躍していました。
しかし帆船は天候や風向きによる影響があるため条件が良い日を待つ必要がありました。南佐渡の港は地形が天然の風受けの役割を果たし、北前船や商船の風待ち港として人の往来で賑わいました。
町人文化の伝来港_小木港の歴史
小木港は特に北前船の出入りが多く、船頭たちによってもたらされた町人文化(町人文化とは職業的に、より専門性や優れた技術力のある独自の都市文化)を形成してきた港です。小木・宿根木は船大工など廻船業に携わる人たちが居住し築いた集落が今も国の重要伝統的建築物群保存地区とされています。
また小木港は佐渡の民謡「佐渡おけさ」の元唄が伝わった港とされています。熊本県天草市の牛深港に伝わる騒ぎ唄である「牛深ハイヤ節」が、北前船の船乗りたちによって小木港に伝わり「小木おけさ」として広まりました。その後、唄は相川の金山で働く鉱夫たちによって「選鉱場節」として哀愁漂うメロディが付加され、明治39年に現在の「佐渡おけさ」となり、今に伝えられてきました。
港情報
住所 | 〒952-0604 新潟県佐渡市小木町 |
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開港時期 | 中世(1221年)以降 近世(1600年)以降 政治経済上の拠点都市 |
お土産・特産品 | さざえ、いももち、ビオレ・ソリエス(無花果) |
祭り・イベント | アース・セレブレーション、小木ひな人形祭り |
芸能の継承地_羽茂港の歴史
小木港と赤泊港の中間に存在する羽茂港も南佐渡の重要な港として機能してきました。古くから米の積み出し港として、明治時代には羽茂町の特産品である佐渡味噌の積み出し港として地場産業発展に貢献してきた港です。
また室町時代能の大成者である世阿弥や、江戸時代初代佐渡奉行の大久保長安が連れて来た能楽師の影響で島内に能楽が広まり、羽茂では今でも7つの能舞台が現存し、今なお受け継がれています。
港情報
住所 | 〒952-0512 新潟県佐渡市羽茂大橋 |
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開港時期 | 中世(1221年)以降 |
お土産・特産品 | ル・レクチェ、おけさ柿、古食庵の土人形、佐渡味噌 |
祭り・イベント | 羽茂まつり、花魁道中、羽茂うみゃあもん祭り、大崎そばの会 |
佐渡奉行の渡来港_赤泊港の歴史
赤泊港は北前船の寄港地であるほか、慶長5年(1600)佐渡金山の有望性に目を付けた徳川家康により天領とされ、佐渡奉行渡来港となりました。金山の繁栄に伴い国内各地の技術者が集まり、様々な文化や芸能が持ち込まれました。またその時の人口増加に伴い生活物資の不足から越後より物資を搬入する際、越後を結ぶ赤泊港は重要な港として大きく発展していきました。
さらに赤泊港は漁業も盛んな港でした。中でもカニ漁(ズワイガニ)は江戸時代後期頃から盛んに行われていました。しかし戦後(1945)、ズワイガニの乱獲により漁獲量が激減してからはズワイガニの漁獲が制限され、赤泊沖でズワイガニより深海で稀に獲れていた同属である紅ズワイガニが注目されるようになり、赤泊港はズワイガニの代わりとして紅ズワイガニを特産品としてきました。
港情報
住所 | 〒952-0711 新潟県佐渡市赤泊 |
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開港時期 | 中世(1221年)以降 近世(1600年)以降 徳川幕府の天領 |
お土産・特産品 | 紅ズワイガニ、南蛮エビ、かやの実かりんとう、北雪酒造 |
祭り・イベント | 赤泊港まつり、赤泊カニフェスタ |
紅ズワイガニ初発見は佐渡沖
明治39年(1906)アメリカ水産局の調査船が佐渡の沢崎沖980mの海底から得た標本を調べ、昭和7年(1932)アメリカ合衆国の甲殻類を専門する動物学者であるメアリー・ラスバン博士が新種として命名しました。
それまで漁師たちはズワイガニに紛れ網にかかったズワイガニに比べ甲羅が濃い赤色で薄いことから病気を患ったズワイガニなのではと思い、海に捨てていました。しかし調査によりズワイガニの新種であり、ズワイガニの漁獲量激減のため困っていた漁師たちは新種紅ズワイガニに商品価値を見出し売り出されるようになりました。
そんな南佐渡の生息に適した海底地形ときれいな海洋深層水で育った紅ズワイガニは、同属のズワイガニに対して身に水分が多く柔らかいですが甘みが強く、甲羅が薄いので身が取り出しやすい・加工がしやすいなどの特徴があります。
赤泊の漁港で水揚げされたばかりのカニを直売している「弥吉丸」では試食ができ、カニのほかにエビや赤泊産の海産物・加工品も販売しているので地元の人々はもちろん、島外の方にも人気の直売所です。
歴史や文化に観て触れて
佐渡は日本海に浮かぶ孤島のため、人や物、文化は港を介して運ばれてきました。
奈良時代から佐渡は罪人の流刑地とされ、流れ着いた貴族や知識人によりもたらされた貴族文化、金山発展に伴い奉行や役人が江戸から持ち込んだ武家文化、小木港の歴史の際に触れた町人文化、それら全国各地の港から物資とともに人々によって運び込まれた無数の文化が融合し、佐渡独特の文化を育んできました。その結果「佐渡は日本の縮図」と言われるようになりました。
受け継がれた有形無形の文化は島内各地に見られ、はるか海を越えた全国各地の人・物・文化との結びつきを感じさせてくれます。